「小さな皇帝」を育てていませんか?

投稿日:2016年8月30日

「小さな皇帝」とは、中国の一人っ子政策によって、自由で我が儘な子どもに育ってきたことを意味する言葉です。その実態については、詳しく知る術もないのでコメントはできません。ただ、それは隣国のみの話ではなく、近年、日本においても当てはまる状況が生まれているのではないかと思っています。

少子高齢化が進展し、日本の家庭でも一人っ子や、少ない兄弟姉妹の中で成長する子どもは多くなっています。一方、祖父母も若く経済力もあり、一人のこどもに注がれる愛情や豊かさの割合も多くなっていることでしょう。

そのような恵まれた環境で育つ子どもたちが、自由でわがままになっていく過程は、科学的な論拠を持ち合わせている訳ではないですが、十分に予想されることは間違いないでしょう。

時代は進展しても、1000年も以上も前の小説や随筆、和歌等に盛り込まれた、人間の思考や感情、心の働きが、現代人にも十分理解・共感・納得できることを思うと、人間の成長のメカ二ズムはそれほど大きく変化しているのではないと思うからです。

 

ファミリーレストラン、遊園地、観光地、電車、百貨店等、家族連れの集団の中には、必ず「小さな皇帝」の姿を見つけることができます。必ずしも彼らが、輪の中心に居るわけではありませんが、選択場面では真っ先に彼らの意志が確認され、周囲の気遣いの目が集まり、話題の核心となっています。そのような扱われ方の蓄積が、「小さな皇帝」を育てているともいえます。

「小さな皇帝」だけが集まる、幼稚園や学校と言いう集団の場では、家族の中でのような扱われら方はされないと、彼らの大半は、それなりに環境の違いに気付くものだけど、中には気付かない子どももいるようです。否、親の中にも我が子が家庭のみならず集団の中でも皇帝として処遇されることが当然だと思い込んでいる人も居るのです。

学芸会で、自分の子どもが主役でない、セリフが少ないといった苦情は、稀ではありません。クラス合唱のピアノ伴奏者をオーディションを実施して決めるというのも普通になっています。主役のない劇を作ったり、マスゲームの位置取りもローテションしなければならない場合もあると聞いたこともあります。

チャップリンの映画にあるように、一人の人間が大きな機械の歯車の一つとなって、その存在が埋没してしまうことは考えねばならないことです。しかし、列をつくれば、必ず先頭が居て、真ん中があり、最後尾が存在します。列を横長にしても、右があり中央があり左ができます。全員が先頭だけ、中央だけの列は存在しません。集団の中では、それぞれのポジションや役割があるのです。ポジションや役割は、それぞれの個性や能力、興味関心等に依って決まります。それでも、時や場面が変わると交代することもあります。

体の大きい子も小さい子も同じ重さのものを運ぶのが平等ではありません。体の硬い子も柔らかい子も同じポーズをとることも平等ではありません。人前で緊張する子も平気な子も同じ演技をすることが平等ではありません。話すことが得意な子も苦手な子も同じ科白を言わなければならないのも平等ではありません。

どのポジションや役割であっても、周囲から、期待され、尊重され、称賛され、受け入れられることが大切です。そして、本人自身が、喜び、感動、満足、充足感、効力感、幸福感を得る機会となっていることが重要なのです。形式的な平等感にとらわれるのではなく、本人の中に、創造される何かの価値が生まれたのかを見なければならないと考えます。いかがでしょう?

 

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