子どものトラウマについて

投稿日:2016年8月11日

トラウマは、命に及ぶような危険に自らが遭遇したか、もしくは身近に見聞したことによる心の傷つき体験である。そして、その体験が強い恐怖や、驚き、不安を伴っていたことにより、事後、何かのきっかけによってその体験時の心理的・身体的反応が再現されるような衝撃体験である。

トラウマによって引き起こされるストレス障害がPTSDである。一般的には、事故や事件、地震や津波などの自然災害、殺人や暴力、戦争やテロなどの出来事に遭遇した場合に発症する。しかし、時には、いじめや暴言、無視等必ずしも命に及ぶほどのケースではない場合にも発症が見られることがある。

事件・事故や自然災害の場合などは、これまでの経験から、出来事の発生時の緊急支援がスタートし、1か月以降からは生活支援や復興支援、PTSD対策等、時期に合わせたケアが計画されていく。しかし、子どもたちの世界で起きている、いじめや暴言、無視などによるトラウマには、果たして十分なケアが行き届いているのか。

子どもたちの傷つき体験のほとんどは、不登校や引きこもり、自傷行為や他者(主には家族)への暴力行為などが顕在化して、初めて気付くことが多い。もしそれらの行為がトラウマによるものであれば、周囲の大人たちはどうすれば良いのであろうか。

災害によるトラウマへのケアの場合を考えてみよう。発災後1カ月くらいからPTSDの症状を顕わすケースがある。

思い出さないように、現場や映像、話題から避けようとしても、却って記憶が強化される場合もある。励ましの言葉や、支援の方への対応で、悲しみが更に強くなる場合もある。

楽しいイベントが終わって静けさが戻ると、寂しさが身に染みることがある。同情や共感の言葉で癒されながらも、いつの間にか自分を責めている時がある。善意の方々に囲まれながらも、立ち上がれない自分に鞭打つ時もある。

おそらく、支援の第1は寄り添う事ではないだろうか。支援者であると相手が感じた時点で、プラス面とマイナス面が同時に生まれるのかもしれない。それは仕方のないことであるが、支援者は、支援が何の功も奏しないこともまた支援の在り方だと自覚しておく必要がある。そのことによって、支援に余分な力が入ることを予防し、先程のマイナス面を少しでも軽減することが可能だと思うからである。

睡眠や入浴、食事の団欒、談笑、散歩、おしゃれ、ペットとの触れ合い、運動等、日常の生活を取り戻すことがトラウマの軽減には最適だとも言われている。

被災地で、無邪気に遊んでいる子どもたちをみていると、トラウマとは無縁のように見える。21年前、阪神淡路大震災で学校が休校し、数週間ぶりで学校再開となった時の生徒たちの様子が今でも忘れられない。

クラスの友も亡くなった。親や兄弟、祖父母を失った生徒もいる。校区の家は、8割近くが全半壊・全半焼の被害を受けていた。ほとんどの生徒が、避難所や親せき宅から登校して来た。それでも彼らは、底抜けに明るかった。久しぶりの再会だったからか。助かった命を喜んでいたのか。ハイテンションの彼らに、暫くは黙って見守っていた。

被災していた彼らを、久しぶりの登校日にどう迎えようか悩んでいたが、杞憂であった。

むしろ彼らの明るさに救われた思いであった。子どものエネルギーに感謝した。

しかし、見逃してはならない視点がある。柔軟性のある若い樹木は、圧力にもポキッと折れることなく、弓のようにしなっても復元してしまうことがある。これは若木骨折と呼ばれる。一見何事もなかったようであるが、傷が残り、いつかそこから炎症を起こす可能性がある。子どもの場合、トラウマは周りも本人も気付かないまま見過ごされるケースがあるということ。

子どものトラウマには、周囲の細やかな観察が不可である。眠れない、食欲がない、決まった時間に腹痛があるといった身体症状。集中力がない、イライラしている、落ち込んでいるといった心的症状。他者への暴言・暴力、自傷行為、破壊行為と言った行動面での逸脱。このような背景に、トラウマが潜んでいないのか。トラマとなる、虐待やいじめ、トラブル、悩みを抱えていないのか。心の叫びや悲鳴が聞こえてこないのか。耳を研ぎ澄ませて、目を凝らして私たちは、関わる子どもたちを観察しなければならない。

 

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