人間関係のトラブル・健康不安・家族問題・経済苦等で、悩み、苦しみ、その結果身体にも様々な不調をきたし、そして、それらの出来事を要因として、うつ病を発症してクリニックを訪れる人が増えている。
クリニックでは、診断の上、薬が処方され、日常生活上での注意点などを助言し、時には心理士によるカウンセリングが実施される。
ところで、重篤な病気の宣告を受けたことが要因でうつ病を発症した患者であった場合に、カウンセリングは果たして有効なのだろうか?
病気が完治されれば、うつ病は無くなるのではないか。病気が快方に向かえば、うつ病も軽くなるのではないか。反対に、病状が次第に悪くなっていくと、更にうつ病がひどくなっていくであろう。
病気であれ、人間関係や経済問題など、重篤な問題ではその根本が解決できないと、カウンセリングには意味がないのではないか。カウンセラーでありながら、私はそのような疑問を抱いてきた。
そのように思えたのは、私の日常の次のような体験からである。
私は、夢の中で、自然災害や事故に遭遇して逃げ回っていることがよくある。大きな地震による山津波に襲われたり、山火事に囲まれたする中を必死で逃げ回っている夢を何回も見ている。おそらく25年前の阪神淡路大震災の揺れを神戸の自宅で体験し、避難所となった学校に勤め、倒壊した街並みや、燃え落ちる住宅を目の当たりにしたことや、東北地震の際の津波映像が、心の奥底に残っているのだと思う。
夢の中で逃げ回った結末はいつも同じ。絶体絶命の時点で目が覚めて、「ああ!夢で良かった」となる。「目が覚めて、夢だった」と安堵することで、必死になって逃げまわっていた苦しさや辛さから一気に解放されるのである。
もし、夢の中での出来事が、現実のことであればどうだろうか。苦しくて、辛くて、眠っても目が覚めればまた、何も変わらない現実が存在したら。「夢であって欲しい」と願っても、何度眠りから目覚めても「夢で良かった」と、言えなければ、その苦しさや辛さから解放されることはないのではないか。重篤な病気や、複雑にこじれた人間関係、経済的な苦境などに直面すれば、人々の苦しみはいつまでも癒えないのではないだろか。
そうであるならば、あまりにも辛すぎる。少し、問題を俯瞰してみよう。
私が、自分自身の中に深刻な問題を抱えると、果たしてその重みに耐えられるのか、不安に思えるからだ。
しかし、世の中には、様々な状況下に置かれている人も多くいる。がんの告知を受けても積極的に治療に臨んでいる人、余命宣告を受けながら従容として今なすべきことに取り組んでいる人も居る。家族問題や経済問題にも、明るさで立ち向かっている人も多い。
それはなぜなのか?決して諦めた訳ではない。むしろひた向きに、確実に、前を見据えて、悠々と歩み続けている。
私は、そのような人々の生きざまに触れた時、人間の奥底には、秘められた想像もできない、「無限の可能性」が潜んでいるのではないか。そう考えるようになった。
もしそうであるならば、カウンセリングは、有効であるかもしれない。
無音で、真っ暗な闇の中では、人は長時間を耐えることができないと言われている。時間の感覚は無くなり、空間認識も正常に保てないかも知れない。五感は、鋭敏になったり逆に鈍くなる。幻聴や幻覚も起こってくることも予想される。
重篤な問題が起きると、人は、当然その問題に意識が集中し、心の中もその問題に占有されてしまう。周りを見回す余裕もなくなり、いわば無音無明の状況下に入ってしまうのである。
その状況から脱する方法はあるのか。
それは、無音無明の壁を破ることしかない。
「無限の可能性」を輝かせている人々は、その無音無明の壁をうち破った人々ではないのか。
「無限の可能性」を輝かせている人々には、何があるのか?
「決して諦めた訳ではない。むしろひた向きに、確実に、前を見据えて、悠々と歩み続けている。」と、前に書いた。
「ひたむき」とは、「直向き」と表記される。問題に、まっすぐに向き合っている姿である。今、起こっている事柄から目を背けるのではなく、真正面から向き合っている姿である。元来、人は辛い現実から逃げたい、避けたい、忘れたいと思うのは、全く当然のことである。しかし、それでは瞬間は乗り越えても、また現実に引き戻されるだけである。問題を直視することは、決して楽なことではない。しかし、直視することで、見えてくることもある。問題の本質にたどり着く、最短の道程なのかも知れない。
「確実」な歩みとは、遅々と見えるかもしれない亀の歩みが、兎を追い越したように、間違いなく目標に達する前進である。一気呵成に物事が進められることは痛快ではある。しかし、疾走する車中から見える景色よりも、陽光を浴びながら、微風に漂う花の香を感じながらゆっくりと歩みを進めて見る景色に、人生の喜びを噛みしめることも多い。
「前を見据えて」の歩みは、雑踏の中でも、目標を定めながら、人混みに翻弄されることのない、力強いステップである。後ろを見て後悔するのでもなく、上を見て羨むのでもなく、下を見て安堵するのでもなく、輝く未来を胸に描きながらの希望の前進である。
「悠々」の悠の字には、ゆったりといった意味と、長い、あるいは永久にといった意味も含まれる。悠々とは、ゆったりとした堂々の姿とともに、それが崩れることのない恒久の姿であることも表している。その場しのぎではない、恒久の生きる姿としての様相である。
人は、無音無明の壁を破り、「無限の可能性」を心の深奥から湧現させた時、何物にも揺らぎない輝きを発するのであろう。
カウンセリングとは、その輝きを引き出すためのアプローチと定義したい。
しかし、「無限の可能性」は、他者が引き出してくるものではないと考えている。その人自身の心の奥底から湧き上がってくる不可思議な力である。他者や本人が、意図的に操作できるものでもない。では、どうすればよいのであろう。
カウンセリングが関われることは、相談者が辛く苦しく悩んでいる無音無明の壁を破るための過程にあって、相談者やその関係者等に、寄り添い真摯に問題に向き合い、できる限りのサポートをすることではないだろうか。
どんな重篤な状況の中にあっても、輝き続ける人々の傍らには、その人を支える家族や仲間、理解者の存在がある。或いは、それは家族会や自助グループ、支援団体などの存在であるかも知れない。
支援することは、当事者だけではなく周囲の人々への働きであっても、大きな力となっている。カウンセリングが、当事者やその周囲に居る人々にとって、支援の役割を果たすためには、彼らとの信頼関係が築かれていなければならない。
信頼関係の構築には、カウンセラー自身の、相談者への真摯な向き合いがなければならない。それは、プロとしての姿勢というよりも、一個の人間としての生き方のように思える。私が、相談者の立場なら、間違いなく一個の人間として真摯に生きている後者の人をカウンセラーとして選ぶであろうから。
最後に、「無限の可能性」を引き出すカウンセリングの条件をまとめておきたい。
1 カウンセラーの資質が最重要である。
本物の人=カウンセリングマインド、カウンセリング技能、カウンセリング経験等
に於いて秀でたもの持っていなければならないだろう。
誠実の人=来談者中心であること、共感的理解をすること、正直であろうとすることに真摯に務めている人である。
本気の人=見捨てない、諦めない、限界も知る、最後まで寄り添うを旨とすること。
その上で、以下のような視点を見出し、希望の灯を守ることができること。
2 クライエントに何らかの見通しをもたせることができる
3 クライエントに良好の兆しを認めさせる
4 具体的な手立てを取り入れる
5 課題を焦点化できる
6 良い点を伸ばす
7 寄り添う人がいる
何か、最後は羊頭狗肉の文章となってしまったかもしれない。
何故なら、カウンセリングでできることには限界があり、私自身には、技能的にも知識的にも備わる容量の限界があるから。
しかし、結局は何を述べたかったかと言えば、人は傍らに自分のことを100%認め、愛し、受け止め、信じ、寄り添ってくれる一人の存在があれば、救われるということである。そして、その一人の存在と力を合わせることで、自身の奥底にある「無限の可能性」を呼び起こすことができると考えている。カウンセラーは、その一人の存在,或いはその一人を支える存在となるべく、努めることが重要だと信じている。
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