先を読み切る難しさ 

投稿日:2017年7月10日

私は下手ながらも将棋も碁も好きである。どちらの方が好きかと聞かれたら迷いもなく碁と答える。

下手だから、たいがいは負けてしまう。将棋で負けると王様が取られてしまうわけだから、完全な敗北である。一方、碁は途中で勝負を投げ出してしまう場合(投了)もあるが、それなりに最後の石までを打って、あとは各自の目を数え、多いほうが勝ちとなるのである。

結局は大差で負けているのであるが、自分が取った目も僅かながらに残されているので、その分口惜しさが軽減されるように思えるからである。

述べたかったのは、敗者の弁ではない。碁も将棋も共通することがある。それは、この二つは、「先を読む」ゲームであるということ。下手な私は、先を読んでいるが、読み切れていないのである。指しているうちに相手が、想定外の手(読み切れていない手)を打ってきて、それに動揺し、対処を誤り、負けてしまうのである。

先を読み切れた人が名人と呼ばれるのである。碁の強い人は沢山いる。しかし、名人は一人である。どんなに強い人でも、読み切れなくて勝負がつく。それ故、名人位には、一人しかなれないのでる。

 

近年、学校で事故やいじめの事案が発生すると、マスコミで一斉に報じられる。原因を究明し、再発を防止することは、学校や教員の責務である。

ただ気になることがある。「なぜ学校は、事態を予測できなかったのか?」「(間違った)判断をした理由は何か?」たたみかけるように追及が始まる。追及が悪いと言っているのではない。追及するコメンテイターが、私ならそのような愚かな判断をしないとばかりに、述べていることが問題なのである。

どのような分野においても「先を読み」続けて、一度も間違った判断をしない名人は、希少である。あその前提に立って、あらゆる場面を想定した課題対応のシステムが必要なのである。

人は、間違いをおかすものとして、だからこそ、チェック機能や振り返りのシステム、第三者の導入等、その都度「先を読み」直すことが大切なのである。

マスコミは、事件が起こってしまった時点から時間を遡り、誤った判断をした時、場所、人物等を確認して、責任の所在を特定することが使命のように振舞っている。しかし、それで良いのであろうか。

再発の防止のためには、そのような直線的な原因結果の追求を繰り返しても、効果はない。現実にいじめは何度も繰り返され、事故の発生は収まらない。むしろマスコミの追求報道は、事件のストーリを単純に理解することには役立っても、本質にたどり着く道筋を随所で切断する作業にさえなっているように思える。ワイドショー的、事象の単純化の作業が、地道に検証を続けようとする人への障壁になっているかもしれないことを自覚しなければならない。

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