東須磨小学校事件に想う

投稿日:2019年12月8日

地元で、全国に知れ渡る大きな事件が起こった。「神戸の教員です」と、表明するのが気恥ずかしい思いに駆られている先生方も多いに違いない。私も忸怩たる思いであるが、ニュースやネットで流される情報しか知りえない立場で、特別のことをコメントできる訳でもない。  しかし、30数年間神戸の教員として勤務し、神戸市全9区で何らかの形で、仕事上の関りを持ってきた経験から、玉石混淆の報道に黙っておれない気持ちも日増しに強くなっている。須磨区には10年間勤務した。東須磨小学校も、その周辺地域には駅や桜の名所もあり、学校の前を車で通り過ぎることも良くあった。それだけ身近な学校である。それ故、報道やネットニュース等で、予見や偏見,予断、憶測、想像の域をでないようなものは、排除してほしいと強く願っている。

ある地元新聞に、事件後に、現職中堅教員、現職ベテラン教員、元校長というような肩書の3名の匿名座談会記事が、2面全体に掲載されていた。そして、それぞれの立場から今回の東須磨小学校の事件を語るという特集である。  正直私はそれを読んで、新聞社の意図を図りかねた。3名の意見は、決して偏りのない常識的なものであった。むしろ、そうでなければならないのだろうと思いながら読み進めた。そして、最後は、断定的ではなくやんわりと教育行政に注文を課すようなものであった。  これは、テレビでよく見る手法だ。例えば、消費税増税に際して、局側の賛否は明言しないが、報道の最後に、増税することに苦しむ人々の声で終わらせるといった方法である。もし賛否の意思を明確にすれば、それに伴うメリットやデメリットにも責任を負わなければならない。しかし、自分の思いは表明したい。そんな時、自分と同じ主張をしている学者や評論家、時には一般の人々に代弁させているのである。これは姑息で、最も卑怯な意思表明のやり方ではないだろうか。

今回の事件について、市教委や管理職の責任が問われることは当然であろう。事件関係者には、傷害罪や侮辱罪、名誉棄損罪、ハラスメントなどの刑事罰も避けられない様相だ。一方、加害教員の中には加害への認識がない、発端はふざけから発展している可能性も高い、周囲の教員の認識にも幅があるといったいじめの構造も出来上がっている。

そうすると事件の起点や加害者の関与度などの特定も困難な作業となる。事件の全容をどう把握するかが問われる。  関係者の調書や被害者や加害者の陳述を読み解き、教員社会或いは小学校教員社会の文化を理解しながら、東須磨小学校の教師集団の人間関係、各個人の特性、価値観等にも着目をした全体像の理解は容易ではない。  せめて各専門家は、自身の専門性の視点から考え・主張を述べ、全体像の把握への寄与を果たさなければならない。

報道は、それらの検証的な主張を丁寧に集め、一つ一つを紡ぎながら、真実を描き出して、視聴者に分かりやすく伝えるとう作業である。そこに報道に携わる専門性が生かされるのである。座談会を企画して、意見を述べさせる安易な方法で良しとしてはならない。

神戸市の公立小学校教員数は、平成30年度で凡そ4500人程である。小学校数は164校。 1校で3名の教員が異動するとしたら、約500名の人事異動である。それに直接携わる教育委員会の職員は10名居るだろうか。  500名の、年齢・性別・住所・キャリア・家庭事情・健康状態・通勤方法・特性・本人希望・教科(小学校でも専科制もある)・課外指導(クラブや地域指導)他にも、休暇利用・派遣希望・配慮事項等様々な状況が存在するのである。人事が、教育委員会の人事担当者のみで実施されるためには、膨大な情報を管理し、ITなどを駆使していくしか方法はないであろう。年末に各教員から、異動の意向を確認しても、3か月弱で取り組まねばならない作業である。

「神戸方式」については、今回の事件以前より廃止の方向にあった様だが、このタイミングで委員会が廃止を前倒しにした感も拭えない。廃止にあたっては、良い教員を必要な学校に配置するといった歴史的な役割も明記しておく必要があると考える。

「神戸方式」を今回の事件の元凶として捉えるのは早急過ぎる。それを利用した管理職と適用された一部教員の資質に問題がなければ起きえなかったことであるからだ。   私は、むしろ人事を含め管理職の権限が弱く、組織マネージメントが十分に確立されていないところに問題があると思っている。

管理職に進言しても問題が収まらないのは、指導する力や権限が弱いからである。校長に言っても問題に向き合ってくれないことは、ありえるケースだ。問題化することで築かれてきた相手の忠誠心を壊したくないと考え、避けているのかも知れない。或いは、相手の気を損ねたら崩れるほどの忠誠心しか相手にはないことに気付いていたのかも知れない。 いつも強気でものを言う人は、その言葉に相手が従っている限りは自身の立場は大丈夫なんだと確かめているのだが、心底には不安があるものだ。結局は臆病なのだろう。  問題が表面化した瞬間に、舞台から降りてしまう人は、やがて時間の経過とともに自身の立場が崩壊することを予見するからである。

「神戸の教員です」と胸を張って言えるようにするためには、先ずは、教員一人ひとりが、自らの身辺を振り返り、子供たちのため保護者のため地域のため全力を尽くして行こうと決意することだと思う。そして、自信と信念をもって目の前にいる子どもと格闘する姿こそが、信頼への糧となる。そう決めて頑張るしかない。

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