それは、先ず、集団の中で生きるということ
カウンセリングをしていて、最近特に多くの相談を受けるのが。「友達が怖い」
「集団が怖い」「友だちができない」といった理由から、「学校に行けない」という訴えだ。
かっていじめられたことがあってそれを思い出す。仲良くしていた友達が、別の子と仲良くなった。教室に仲の良い子がいない。みんなの目が気になる。
いじめ防止対策推進法が施行され、露骨ないじめや仲間外れは見られなくなったが、陰湿な排除など当人にとっては、却って辛い立場に追い込まれるケースとなっているかも知れない。
居場所がない。居心地が悪い。会話が続かない。一人ぼっちである。このような状況にあると人は誰でも逃げ出したくなる。
心理士である私さえ、自分がそのような状況になると、心の持ちようを変えて対処する等の器用さはない。
子どもたちが、その程度の理由で学校に行けなくなるのは、傍目から以上に本人には、深刻な問題であるかもしれない。
人が、自分の考えや希望、欲求を主張すると、親や家族の場合は、多くは受け入れてもらえる。自分が幼ければなおさらだ。友だちや社会の中では、必ずしもそうではない。幼稚園や学校では、先生もいて、上手く調整してもらっている。
小学校の上級生や中学生になると、調整役の先生も不在となる。そのまま要求を出し合うと、軋轢が生まれ、調整ができなく、時には、心に傷を負ってしまうケースもある。
傷は致命傷にまではならなくても、カミソリの刃のような切れ味で、長く痛みを伴う恐れがある。
このような経験が伴うと、誰も臆病になって、そのような場面に直面することを避けようとする。それが不登校の形となる場合も多い。
軋轢の調整役が不在の時はどうすればよいのか?そのために、社会には、約束事やルールが定められている。
ただ、親や先生が調整役となっている場合は、ルールを使う経験がなく、調整役が不在となって、突然ルールが必要となってしまう。
それまでにルールの使い方を学んでいなければ、ルールがあっても活用できない。結局引き篭ってしまうのかも知れない。
校則には、不要なものも存在するかもしれないが、校則は要らないという極論もダメだ。ルールを学びルールを尊重するという姿勢は、幼き時から学んでいかなくてはならないからだ。
そうして集団の中で生きていくことが、生きる力のベースとなる。
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