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1.17の5時46分、突然の揺れに目を覚ましました。隣では、妻と当時小学2年生の子供が、「怖い 怖い」と泣き叫んでいました。とても長く感じられた揺れが収まりました。「地震だ」と思い、1階に降りましたが、居間や台所の荷物が一部散乱していましたが、大きな被害はありません。しかし、後日詳しく調べてみると、壁の数か所に亀裂が入っていて、家屋の一部損壊でした。我が家は神戸市の西端でしたので、地域の被害の度合いも少なく、それでも震度は6でした。
その後、大きな揺れだったなと思いながら、普段通りに朝食を済ませて、車で出勤しました。ライフラインがどうだったか記憶にありません。直後には、繋がっていたライフラインも、やがて繋がらなくなったようです。その後、長い期間風呂に入れなく困った記憶はあります。水道やガスは暫く使えなかった?電気は、早い時期に復旧していたという記憶です。
1月7日
当日朝7時前に、普段通りに家を出て、車で須磨区の中学校に向かいました。当時、1年生の学年主任をしていました。須磨区の山の手(高台)から、平地にある学校に向かう長い下り坂の途中で、突然の渋滞です。普段渋滞のない箇所ですので、「何だろう?」と思いながら、渋滞の最後尾に着けましたが、やがてピタリと動かなくなりました。10数分待ったでしょうか?いつの間にか後ろには、車が連なっています。下から上がってくる車が無いので、反対車線は空いています。私は、反対車線に出てUターンをして、すぐ近くの県立高校の門が開いていたので、車を入れました。職員室に行って、事情を話し、車を駐車させて頂きました。そこから、徒歩で学校に向かいました。
渋滞の列を横目にして、坂を下って行きました。どんどんと道を下っていくと、町は一変していました。
家屋が倒壊し、ビルが傾いています。道路は、倒壊した家屋でふさがれています。多くの車が立往生です。どの道路も車が動けなくなっていました。反対車線が空いていたのも納得です。高台の方に上がる道までにたどり着けないのです。
学校に近づくと、更に様相が一変しました。学校のある辺りに、火の手が上がっています。救急車両は走っていません。幸い、学校は燃えてはいませんでした。
学校に到着したのは、9時半頃だってしょうか?職員は、ほとんど到着していません。近隣に住んでいる何人かの職員が来ていました。
一人の男性の先生が、「すぐ来てくれ」と叫んでいます。学校の隣に立っていた、文化住宅(2階建ての長屋)が倒壊し、1階が潰れ2階が下に落ちている状態です。そこに、男性の住人が生き埋めになっているとのことでした。すぐに数名の教員が駆け付けました。しかし、重たい梁が落ちていて動きません。誰かが、車のジャッキを持ってきて助け出したのは、昼前でした。一旦、学校まで搬送しましたが、様態が芳しくありません。
私はその男性に付き添って、学校の近くの総合病院に行きました。病院は、ロビーから玄関まで、けが人や体調を崩した人でごった返していました。看護師さんに状況を伝え、男性を預けて、学校に戻ったのは夕方でした。
学校に戻ると、先生方は、地域から避難してきた人々の対応に追われていました。
地震後、真っ先に学校にたどり着いたのは、管理員さんのようでした。やがて、教頭など数人の職員が到着しました。私が到着した時は9時半頃でしたが、それでも10に満たない先生方の数だったと思います(当時職員は30人程度)。
地震直後から、学校には近所の住民の避難者が着の身着のままに避難されて来ました。最初は、避難者を、管理棟(職員室や家庭科室、図書室等があった)の2階の体育館に誘導したのですが、体育館の天井が一部落下していたので危険であるという事で、教室棟の各学年の教室に誘導しました。私が、学校に着いて間もなくして、1階から順番に教室が解放されていました。避難者は、当初は300人ほどでした。
中学校に近い小学校も避難所となっていましたが、小学校の周囲に火の手が上がり、類焼するかも知れないとの事で、避難所が閉鎖となりました。そこに避難していた人々の多くが、昼過ぎには、中学校に避難して来られました。
あっという間に4階の教室まで、避難者が一杯になり、夜には1400人近くの人が避難されていました。その後も避難者は続々と集まり、最大時は2倍になっていたように思います。教室前の廊下や階段の踊り場迄、避難者で溢れていました。
運動場には、避難してきた人々の車等でいっぱいになり、教室に入れない人は車中泊をされていました。
職員室の在った管理棟は、2階の体育館が使えないという事で、避難者は居ませんでした。
結果的には、その為その後、管理棟には対策本部の設置、救援物資の仮倉庫、生徒の学習室が置かれることになり、避難所と対策本部関連領域・学校関連領域のゾーニングが可能となりました。
職員室の中は、先生方の机は、ほとんどが倒れ、引き出しの文房具や、書類が散乱していました。校長室の耐火金庫は、倒れていました。人が居れば、命を失う状況でした。
職員は、職員室を整理する時間も無く、次々と避難されて来る人の対応に追われました。これ以上の受け入れは出来ないという状況でした。
1日中、避難者の受け入れに奔走しているうちに夜になりました。教頭と4人の職員が、学校に泊まることになりました。私は、車を高校に置いたままだったので、夜の11時に学校を出て、帰宅することになりました。高校まで歩いて行き、車に乗って帰宅したのは、夜中の2時頃だったと思います。
1月18日
翌朝、親戚からバイクを借りて、出勤しました。
学校周辺は、広く焼けていました。電話が不通になっていましたので、避難者を探しに学校に訪ねて来る人が絶えず、その応対が夜中まで続きました。
避難者の中に、本校のPTA副会長で、地域の自治会長でもある方が、避難されていました。その人の申し出で、避難者の自治組織(対策本部)を設立することになりました。そして、対策本部長に就任して頂きました。
各教室の代表者を決めて頂いて、その代表者に集まってもらって、教室に避難している方への伝達や救援物資やお弁当の分配をして頂くのです。数時間で、組織が出来上がりました。
避難者の中から、ボランティアで対策本部長と一緒に活動する数人のメンバーと、各部屋の代表者の中から選ばれた幾人かのメンバーで、対策本部の運営メンバー(運営本部)が出来上がりました。運営本部は、管理棟の1階、職員室の対面にあった家庭科室(調理室)に置かれました。
早速、運営メンバーで、緊急に検討しなければならない問題が発覚しました。
トイレ問題です。学校のトイレは、当時和式の水洗トイレです。給水タンクの水は、断水の為、一晩で空になりました。2日目の昼には、全てのトイレが使用不能となりました。便器には、山高く汚物が積もっていました。止む無く扉を閉鎖しました。
道も寸断していて、仮設のトイレなどは来ません。学校と運営メンバーとの話で、仮設トイレの設置が急務であるとの結論。
対策本部長から、校内放送で各部屋の代表者を招集しました。運営本部の部屋に、各部屋の代表者以外にも多くの人が集まってきました。救援物資も少ないながらに届き始めていました。何か貰えるのかと、集まってきた人もあったでしょう。
対策本部長及び校長から、トイレが使用できない緊急事態です。結論として、仮説トイレを作るしかないと訴えられました。
運動場の西端の空き地がある。そこに、長さ10数m、幅20cm、深さ1mの溝(大きさの記録が無いので、私の記憶)を掘って、周りを1m間隔で仕切りを入れ、仮設トイレを作る、という事になりました。その溝をまたいで、用を足すのです。足置き場には、滑らない板を置き、目安とすることになりました。
トイレを作ることが決定すると、運営委員会に集まった全員で、早速作業に当たりました。
穴を掘る人、間仕切りの為のベニヤ板やカーテンを準備する人、組み立てる人、土砂を運び出す人、分担作業で2時間ほどで、10数基の仮設トイレが完成しました。中には建築の専門家もおられたのかも知れません。とても丈夫できちんとした仕上がりでした。
このトイレを完成させたことで、避難者の生活は避難者自身で築いていこうとの共通認識が、避難者の中に生まれたように思います。
トイレの完成は、全避難者、そして私たち職員にとっても安心の材料となりました。このトイレは、長い断水が続いて校舎のトイレが使えず、仮設トイレが設置されるまでの間、随分と役立ちました。
ちなみに閉鎖された校舎のトイレの汚物は、その後ボランティアで学校に入ってくださった方々が、全て元通りにきれいに清掃して下さいました。本当に感謝でした。
2日目は、昨日学校に泊まって頂いた職員を午前中に、家に帰し、私も含めて半数が泊まることになりました。真っ暗だったとの記憶がないので,電気はついていたのでしょうか?
1月19日
3日目の朝、安否確認の為、避難所を訪れる人が絶えません。その度に、校内放送をかけて呼び出す音が辛いとの声が避難者から上がり、放送時間を制限することになりました。
私は、昼過ぎに、朝に出勤してきた職員と交代して帰宅しました。
1月20日
4日目は、朝から出勤し、泊りのメンバーと交代。この日は、泊りです。
夜中に、卒業生という若い男性が数名で職員室に。何かが欲しい様子だが、相手をしているとハサミを数本見つけて、勝手に持帰ってしまいました。職員室の管理が必要と実感する。
泊りの日は、それぞれが、職員室や校長室、管理員室で仮寝をしていたが、夜中の安全確保が課題であった。学校は、避難所で、24時間避難者の出入りが有るので,施錠ができない状況だったのです。
夜中に中年男性が、また、職員室に訪れました。「水をくれ」というので、分けてあげたが、本当は、救援物資のお弁当を分けて欲しかったようです。まだまだ不足の状況で、渡せるものが無かったが、朝まで話し込んでいかれた。自宅で避難していると救援物資も届かないのだと気付きました。
保安の為、泊りは、男性職員が、スケジュールを組んで続けて行くことになりました。
4日目に、学校周辺の火災が沈火した。先ずは、一安心だ。
しかし、一番気になる生徒の安否が分からない。全く連絡がつかずに、各教師が直接顔を合わせた生徒のみ生存として確認を進めて行きました。
並行しながら、ワープロでの避難者の名簿作りを始めました。
1月21日
5日目。飲料水の給水(給水車)が始まった。救援物資も大量に運ばれてきました。ありがたい。管理棟の空き部屋に入れていくが、既に満杯。救援物資の搬入は、避難者の中から申し出て頂いたボランティアの人たちで、手渡しリレーで行うが、全く手が足りません。人手が欲しい。
1月22日(日)
6日目。雨、心配されたほど降らず、一安心。
夜になると、避難者の中から、風邪や発熱を訴える人が増えた。
1月23日(月)
7日目。生徒の安否がなかなか確認できない。全く不明の子も何人もいる。
その為、対策本部長からは、避難所の運営は、避難者で作っている運営メンバーを中心に行うので、教職員は学校運営に専念下さいとの言葉を頂いた。
避難所運営と学校運営の共同作業は、互いの理解と協力が上手く機能している状況でありました。
1月24日~29日
職員の勤務体制が、泊りも含めて4交代で組まれる。
昼間の勤務の教員が、子どもたちの家庭訪問に回るが、ほとんどの家屋が全壊全焼、半壊等で、行く先不明となっていました。
ご自身も被災されて、自宅住居近くの学校に避難している職員も居る。通勤手段も難しいため、避難所先の学校での勤務が認められた。また、わが校には、被災の程度の軽かった他地域の学校から、毎日数名の教員が救援の為に派遣されて入られていました。
それらの先生方には、職員室の整理など、生徒資料や成績簿等、教員だから分かる資料の整理を担って頂き、大変助かりました。
授業が再開される頃には、自主プリントの作成、印刷など、随分助けられました。
1月30日
地震後初めて、2月3日に1年生の生徒を招集することが決まりました。
生徒への連絡は、生徒が避難しているであろう近隣の避難所や、商店にポスターを掲示して頂くことになった。
生徒たちに招集日の連絡をするため近隣の学校の避難所に行きました。校内放送で呼びかけてもらったが、生徒はほとんど顔を見せません。いるはずの避難所にも姿が有りません。彼らは、昼間にどこに行っているのか不思議でした、
1月31日(火)
治安の為、学校の門が、夜8時から翌朝8時まで施錠することに決まった。通用門は、空けていたように思います。
2月3日(金)
生徒招集日。
午後2時に、図書室に集合。1年生126名在籍中、96名の出席だった。久しぶりに出会った子どもたちは多数で、集合前から子どもたちのテンションは高く、暫くは、相互の情報交換の時間となった。
全校で7名の生徒が亡くなっていた。生徒の保護者、兄弟姉妹、祖父母等、家族の死亡も全校で10数名と分かりました。(家族については、詳細を確認できないケースもあった)。
1年生では、2名の女子生徒が亡くなりました。
後日の、生徒の葬儀については、日程が確認できました。私と学級担任で参加させていただきました。気丈に振舞っておられたが、ご両親や祖父母の憔悴したお姿は未だに忘れられません。学校は、どんなことが有っても、前途ある子どもの命は守り通さなければならないと決意しました。近年、事故や事件、自死等での子どもの命が断たれる報道も見られるますが、最優先で対応しなければならない課題だと思っています。
2月7日(火)
1年生登校日。今日から、学習のスタートだ。午後1時図書室集合。
制服、文房具、教科書を焼失・紛失している生徒も多数で、私服。手ぶらの子もいる。
一部生徒には。筆箱、消しゴム等を支給。
生徒は、2コマ程、プリント学習で自習。静かに取り組んでいるが、長くは続かないだろう。できるだけ早い時期に、授業を再開したいが、教科書もない状況。
帰りに、各自にパンを3個ずつ持たせて帰した。
126名中、現時点で35名が転出(仮転出も含む)。1年生入学時は4クラスだった学年だが。卒業時は3クラスになっていました。
市教委から、カバン筆記用具等 200セットが支給されましたが、100セットを追加請求しました。大変助かりました。
2月8日(木)
登校日。数学・国語のプリント学習。
73名出席。1年生全員を図書室に入れて、自習。教室が確保できないので、他学年と交替使用です。仮設校舎が建つまでの間は、授業も学年一斉で実施しました。
夜、対策本部長・運営メンバーと学校職員代表との懇談会。
本部長からは、学校職員の対応を評価して、感謝の弁。学校側からも、避難者の自治組織が機能しているとのお礼を申し上げる。
2月11日
市教委から、生徒の教科書配布の連絡あり。
2月14日
避難所で、朝7時半からラジオ体操放送が始まる。
第1体操だけでは短いので、第2体操も流すことに。
2月28日(火) 10時~ 校外学習
総合運動公園 (地下鉄で移動)
ウオークラリー 昼食(カレー 炊き出し)
午後サッカー、卓球等に分かれて楽しむ
近くの小学生1000人程も参加。
15時半 地下鉄駅周辺で解散
2月29日~3月13日(月)まで、現況の授業体制継続
3月12日(日)
学校の追悼のつどい
生徒、保護者、地域の方の参加
亡くなった生徒への追悼の言葉(友人)
献花
亡くなった生徒のご両親・ご家族も参加していただいて、厳粛に執り行われたことは大変良かった。
3月14日(火)第46回卒業式
ジーンズ卒業式(地域業者から卒業生全員に寄贈された)
3年生は、3学期はほとんどまともな授業が受けないままに卒業式を迎えた。神戸市内だけでも、震災後の学習環境の学校間格差は大きかった。それ故、公立高等学校の選抜が、内申書によってなされることになったのは、被災校にとっては大変ありがたかった。
3月25日 3学期終業式
4月からの新年度が、元気で始まることを祈念する。
(記録帳は、ここで終了)
今、改めて振り返ってみると怒涛の3か月でありました。
3月末時点で、各教室には避難者が生活をしておられた。春休みに、運動場の半分に、2
階建てのプレハブの仮設校舎が建築されました。避難者は教室で生活し、子どもたちの教室がプレハブに移った形だ。
4月からは、仮設校舎で新学期が始まりました。校庭の半分は、仮設トイレや、駐車場等で占有されましたが、体育の授業も行えるようになりました。体育館も応急処置で使用可能です。ほぼ、普段の学校生活にもどりました。
避難されていた方々が、最後に学校を出られたのは、この年の8月末でした。最後のご家族たちと、全校生徒で、体育館でお別れ会を開催し、避難所としての学校の役割も終了しました。
1年生も、2年生に昇級しましたが、人数は30人以上転居して、学級数も3クラスになりました。
平成9年3月 1年生の彼らも中学校の卒業式を迎えました。震災を乗り越え晴れやかな卒業式でした。震災で亡くなった2名の女子生徒のご家族も卒業式に参加下さり、2人に代わって、卒業証書を受け取って頂きました。
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